断章362

 「1949年10月1日、秋晴れの天安門広場には新国旗が打ち振られ、民衆の歓声と拍手で沸き立った。中華人民共和国、中央人民政府が誕生したのである。この新しい国家は自由主義諸国並みのブルジョワ憲法を掲げた、共産党と民主諸勢力の連合政権(引用者注:民主連合政権ですぞ!)であった。しかし、多元的政治権力並存の期待は次々と裏切られていく。中国社会主義は出発時点ですでに社会主義そのものを変質させる体質を内包し、文化大革命の悲劇へ突き進んだのである」。

 2000年に刊行された中公新書に『中国革命の夢が潰(つい)えたとき ― 毛沢東に裏切られた人々』という本がある(わたしは読んでいない)。上記は、その紹介文である。

 

 ちなみに、上記書籍発刊から21年後の2021年4月のアマゾンレビューにこうある。

 「『あとがきに代えて』にある一文、『そうそう香港に行く機会があったら、ぜひ民主派の今後に注目してくれ。共産体制に民主派が吞み込まれるとどうなるか、しっかり監視してくれたまえ』が、20年の時を超えて、現実のものになる。不気味な予言だったと言えよう」。

 

 中国民主諸勢力は、まんまと毛沢東中国共産党に裏切られたが、日本インテリの多くは、毛沢東中国共産党の“俗流マルクス主義”と“人民(農民)戦争論”の厚化粧に惚れこみ、自らすすんで沼に落ちた。

 情けない日本インテリたちだが、ペルーの「センデロ・ルミノソ」(1969年に設立されたペルーの体制転覆を目指す毛沢東主義武装組織で、正式名称は「ペルー共産党」である。「農村が都市を包囲する」という毛沢東思想を掲げて活動。その活動や統治の冷酷さから「南米のポル・ポトクメール・ルージュ)」とも呼ばれるほど恐れられた。2021年9月に服役中だった最高指導者のアビマエル・グスマンが死去)よりは、幾分ましだろうか。

 

 中国には、「易姓革命」論がある。「中国数千年の歴史のなかで繰り返されてきた王朝交替のこと。王朝にはそれぞれ一家の姓があるから、王朝が変われば姓も易(か)わる(易姓)。徳を失って天から見放された前王朝を廃することは、天の命を革(あらた)める行為である(革命)。したがって、このような新王朝を創始する事業は『易姓革命』とよばれた」(コトバンクから)。

 平瀬 己之吉によれば、王朝交代のサイクルとは・・・、

 第一段階「はじめに王朝交代の大戦争がある。戦乱によって農業が荒廃する」。

 第二段階「そこで、新王朝の成立早々には、政権維持のための慈恵政策として、租税の減免がおこなわれるとともに、動乱で荒廃した農業生産力の昂揚が図られる。これで農業危機は一応とにもかくにも救われる」。

 第三段階「しかし、王朝が隆盛期に達する頃には、国家経費(王室の奢侈的消費、天災復興費、防衛または侵略のための対外戦争費)の増大がようやく不可避となる。増税手段がとられる。天災が頻発する。農民の窮乏が増大し、農業危機が切迫する」。

 第四段階「ついで国内が動揺し、ある時は政権争奪のための宮廷闘争が、ある時は農民のバラバラな、効果のない反租税闘争が散発する。王朝の基礎がゆるぎはじめる。かくて、政権維持のために対人民慈恵政策を最も必要とする危機の瞬間に、租税が最高に引き上げられる。大規模の暴動がおこり、これを物質的力として利用する政権争奪戦が爆発する。王朝が倒れ、新王朝に替わる」。そしてまた、再び先の循環が反復されるそうである。

 

 歴史科学の目をもってすれば、毛沢東中国共産党もまた、このサイクルの内にあると見える。

 「中国・革命戦争(農民戦争)が勝利して、土地の平均主義的分配が行われた。約7億華畝の土地が3億人の農民に分配された。これは当初、共産党に対する農民の支持を強めた。しかし分配の結果は、農民1人当たりの耕地は東北部で3華畝(約2反)、南部の水田地帯では1華畝(約0.6反)にすぎず、中・貧農の多くは暮らしに事欠き、自分の土地をまた手放しはじめたのだった。この農村の危機、農民の貧窮化を解決し、同時に工業化を推進しようとして毛沢東中国共産党が発動したのが『大躍進』だったのである」(出所不詳)。

 それは、完全な失敗に終わり、毛 沢東派と劉 少奇派との暗闘(宮廷闘争)は、次には大衆を動員した「文化大革命」という政権争奪戦になったのである。