断章448

 オスのゴリラは11歳を過ぎるころから背から腰にかけての毛が白くなってくる。これは、シルバーバックと呼ばれ、オスのゴリラをおとなとそれより若い個体とに区別する確実な手がかりになる。

 人間のオスは、歳をとると、おおむねホワイトヘッドになる(白髪頭のことね)。低学歴で地頭も良くないネトウヨのわたしは、歳を重ねても、論理力が鋭くなったり洞察力が深くなるということはない(哀しい)。断片的な知識が増えるだけである。であるがゆえに、思い出すことは増えるのである。

 たとえば、「社会主義は歴史的必然なのだ」と言われていたのが、やがて「社会主義は革命的プロレタリアートが勝ち取るもの」になり、ついには「共産党が支配する国が社会主義なのだ」というところまで来てしまったこと。

 あるいは、不破 哲三が宮本 顕治の手紙を引用して、「波の間に間に漂流するするのではなしに、羅針盤をもった航海者として歴史と人生をいきてほしい」と中学生にアドバイスしたという話を読めば、「大海を行くには舵取りにたよる」という中国“文化大革命”でもてはやされたスローガンを思い出すのである。

 

 共産党という船に乗り、マルクス主義羅針盤として、はたして嵐の大海を行くことができるのか? 

 それが問題である。かならず難破する「はずです」。

 不破 哲三たちは、縄文時代早期に平等主義の“原始共産制”の社会があったという。だから、経済の発達した国では、生産手段を共有化して計画経済にすれば、自由で豊かな共産主義社会主義)社会を創ることができる「はずです」という。

 不破たちは、なぜ、“原始共産制”から私有財産制と国家組織が生まれたかを合理的に説明することができない。悪魔にそそのかされてリンゴを食べたから?

 不破たちは、「逆説的ではあるが、人間の競争は欠乏だけではなく、豊かさとともに激化し、より複雑な形態や表現をとり、社会の溝を深めると共に階層化をも加速させる」(アザー・ガット)ということを、理解できないのである。

 もはや、日本共産党は、「社会主義は歴史の必然」と言わなくなった。今では、社会主義になれば、すべてが良くなる「はずです」と言うのである。

 哲学的推論では、地政学ほどにも時代の先を見通すことはできない。

 

 生存と生殖のために限られたリソースをめぐって争うことは、太古の昔からつづいている。なくなることはない。しかも、「困窮や飢餓が戦闘の唯一の理由ではなかった。資源が豊かであるか乏しいかの違いは、養うべき人の数だけではなく、潜在的に拡大し続ける人間の飽くなき欲求や欲望にも左右されるのである」(同前)。

 わたしたちにできることは、その争いが「血まみれ」「血の海」にならないように努力することである。その努力とは、「空想的平和主義」の念仏をとなえることではない。現実的な戦争を抑止する力が必要なのである。軍備を整え、同盟を結び、経済を発展させる。すなわち、「富国強兵」「殖産興業」は、このアナーキーな国際社会で生き残るための、古びることのない「大戦略」である。