断章222

 「概括的にいうなら、近代とは19世紀を指し、現代とは第一次世界大戦以降の20世紀を指すと考えて大過ありません」。

 そして、「近代とは、個人がおのれの際限のない欲望に従って、おのれのもてる手段を自由に用い、他者と自由に契約することを通じて、欲望を充足し続けることが承認された時代」(『経済史』小野塚 知二)である。

 

 「わたしたちの生きている現在の社会の原型は、この近代に形成されたので、いまを知るうえで、直接的な起源となるのは近代」(小野塚)であるから、この時代を別の角度からも見てみよう。

 

 「19世紀以前には、階層間の移動の道など全くなかった。息子は父親の後を継いで農場で働き、そのほとんどが一生を作男として過ごした。娘は、持参金がなければ、家事奉公人となるほかに道はなかった。したがって、19世紀に登場した企業は解放者だった」。

 「確かに、工員や店員の生活は辛かった。賃金は安く、労働時間は長く、労働はきつく、危険だった。・・・しかし、いかに辛くても、彼らにとっては産業社会で働くことだけが階段を上る唯一の道だった」。

「当時、工員や店員から中流階級に上がっていく機会は、それほど多くなかった。しかし、それだけが下層の人たちに与えられた唯一の機会だった」(P・ドラッカー)。

 

 機会をうまく利用できた者は、小粒の「アンドリュー・カーネギー」になれることも多かったのである。

 「アンドリュー・カーネギーは、1835年にスコットランドで生まれた。当時のイギリスの織物産業は、蒸気機関を使用した工場に移りつつあり、父親の手織り職人の仕事がなくなってしまったため、1848年には両親と共にアメリカに移住した。アメリカで、13歳で初めて就いた仕事は綿織物工場でのボビンボーイ(織機を操作する女性工員にボビンを供給する係)で、1日12時間週6日働いた。後に同社オーナー専属の計算書記となった。間もなく電信配達夫となり、電信会社で昇進。1860年代には鉄道、寝台車、鉄橋、油井やぐらなどの事業を行った。最初の資産は、当時花形事業だった鉄道への投資で築いた。1870年代にはピッツバーグカーネギー鉄鋼会社を創業。1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となった。事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。引退した従業員のための年金基金も創設した」(Wikipediaを抜粋・再構成)。

 

 わたしは、色んな現場仕事をし、大病したのをきっかけに戸別訪問のセールスマンになり、その業界に関係する独立自営に転じた。小商いでは事業協同組合にも関わったが、そこで多くの「社長さん」たちと知り合った。海千山千の強者(つわもの)たちが、“停滞”といわれた「平成の日本」でも、しっかり稼いでいた。若い頃の「貧乏話」をよく聞かされた。

断章221

 「19世紀末から第一次世界大戦勃発まで繁栄した第一のグローバル経済。その時期の欧米先進国は、欲望を人為的に維持する介入的自由主義によって安定的に成長する路線を、少なくとも国内的には歩み始めていました。(中略)

 第一次世界大戦によって、この第一のグローバル経済が破壊されてしまったあとの、分断されて不安定かつ不均衡な時代しか知らない者にとっては想像もしにくいことですが、この第一のグローバル経済では世界の各国・各地域がきわめて密接に結びつき、奇跡的ともいうべき円滑で円満で循環的な関係を生み出していました。物財の貿易、資本の輸出入、人の移動・移住はいずれもほとんど何の障壁もなくなされ、世界各地の経済は、植民地も含めて、きわめて順調に成長し続けていました。しかも、世界の貿易・海運・金融・保険を安定的に成り立たせるために世界は海底電信網で結びつけられ、各地の情報は現在と同様に瞬時に世界の人びとの間に行き渡っていました。(中略)

 しかし、経済がますますグローバル化するということ、言い換えるなら、国際分業がますます深化するということは、リカードの説に従うなら、貿易に参加するどの国もますます富み栄えることを意味しますが、それは同時に、どの国も比較優位業種に特化し、比較劣位業種を捨てることを意味します。つまり、国際分業が深化し、かつ国内のすべての業種・地域が繁栄するということは論理的にありえず、どの国も、比較劣位業種とそれが立地する地域は衰退せざるをえないという苦難を経験しました。また、比較優位を得るためにダンピング(国内の高価格で外国向けの低価格輸出を可能にすること)など過剰な価格競争に陥ることで、輸出産業でさえ苦難を経験しました。こうして、国際分業の深化にともなって、どの国も、繁栄の中の苦難を内側に抱え込むことになります。全体として世界経済も自国経済も繁栄傾向にあるのに、なぜ、自分の業種・地域は苦難を味わわなければならないのかという問いは、殊に有権者が増え、民主化言論の自由が増進している状況では、多くの人びとを納得させる何らかの答えないしは解釈を必要としました。

 しかし、第一のグローバル経済を肯定的に捉える自由貿易賛美論者は、グローバル経済の円満な発展ゆえに、今や国境も関税も意味を失った過去の幻影に過ぎず、まして戦争など起こるはずもないと楽観的に考える自由主義的な平和主義を唱えました。彼らは世界経済全体の繁栄を賛美することはしましたが、そのことは逆に、繁栄の中で必然的に各業種・各地に発生せざるをえなかった苦難の原因を明らかにするのを怠り、またそうした苦難への対処も怠るという特徴的な態度も示していました。こうした自由貿易賛美論は、実際に苦難を経験している人びとにとっては、それこそが幻影の妄論にすぎず、彼らはむしろ、諸種の保護主義ナショナリズムに魅了されるようになったのです。(中略)

 保護主義への転換は相手国の心理に影響を与え、相互に敵意や不信感を醸成する原因となりました。

 19世紀末以降のイギリスでは、自国市場にドイツ製品が氾濫しているという『ドイツの(経済的)侵略』という認識が作用しており、E ・ E ・ウィリアムズが1896年に発表したパンフレット『ドイツ製』によって、イギリス産業がドイツ製品の進出によって苦境に追いやられているとの言説が広がります。比較劣位で構造不況に陥った金属加工業や小間物製造、印刷などの業種とその立地地域では、ドイツの不公正貿易によって、イギリスが当然享受すべき利益が損なわれているとの認識が徐々に強まったのです」(小野塚 知二『経済史』から引用・紹介)。

 

 そうした煮詰まりの結果、「7千万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6千万)が動員され、技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡し、史上最大の戦争の一つとなった第一次世界大戦が勃発した。この戦争は多くの参戦国において革命や帝国の解体といった政治変革を引き起こした。終戦後も参戦国の間に対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した」(Wikipedia)。 

 ―― 19世紀のイギリスとドイツ。21世紀のアメリカと中国。さて・・・

断章220

 「1990年代以降、世界では、『グローバル化』とか『グローバル経済の時代』という言葉が何らかの願望や期待も込めて頻用されていますが、現在も、国家と国境は厳然として存在し、いかに『自由貿易』の掛け声を叫んでも、関税は原則として廃止されていません。通商政策も通貨政策も各国がその主権を保持しています。したがって、わたしたちは、いまでもなお、『国民経済』という言説・政策・認識枠組みの中に生きているのだということができます。

 とはいえ、この一国的な認識方法のみを過度に強調し、重用するなら、近代の市場経済・資本主義が世界体制という形をとって確立したことの意味を見失うことになります。

 欧米諸国の四方八方への進出によって、暴力や軍事力もともないながら、世界が一つの資本主義体制ヘとまとめ上げられる動きは、19世紀中葉に日本の開港と自由貿易体制への編入によって完成しました。

 資本主義の世界体制は、1870年代以降は、地理的な拡張はほぼ一段落して、次に内的に深化する傾向を見せます。(中略)

 1873年以降のいわゆる『大不況』期(ヨーロッパ大陸諸国の産業革命と鉄道建設が一段落したことにともなって発生した相対的な低成長期)、殊に1879年恐慌以降になると、大陸諸国では再び関税を引き上げて、『保護主義』に回帰する動きも見られ、報復的に相手国も関税を引き上げるなど『関税戦争』ともいうべき事態も始まりましたが、関税率はアメリカ合衆国などの禁止的な保護関税政策をとる国と比べれば概してはるかに低く、また二国間条約で維持された最恵国待遇条項が網の目のように主要国を包み込んでいたため、保護主義への回帰と関税戦争はヨーロッパ内の貿易・資本移動・移民を減少させる効果はなく、ヨーロッパ諸国を中心として世界はますます深く、貿易と資本移動と移民とで相互に結びつくようになり、また、そうした条件のもとで、1890年代以降の大不況からの回復過程での着実な経済成長が可能となりました。こうして19世紀末から第一次世界大戦開戦(1914年)までの四半世紀の世界経済を、第一のグローバル経済と呼ぶこともあります。

 この第一のグローバル経済は、1990年代以降、わたしたちが見てきた第二のグローバル経済に比べるなら、はるかに安定的で(国際金本位制によって貨幣価値も為替相場も高度に安定していて)、循環的で(多角的決済システムによって、特定の国に赤字・黒字が溜まるのではなく、三国以上の間で赤字・黒字が循環的に相殺されて)、総じて円滑かつ円満な世界経済のあり方でした。むろん、それが、帝国主義国による植民地支配という負の側面を帯びていたことを見落とすわけにはいきませんが、この第一のグローバル経済の時期は、植民地・半植民地も含めて、世界全体が着実に経済発展した時代でもあります」(小野塚 知二『経済史』を抜粋・再構成)。

 

 ―― 戦後日本の学生運動が高揚した時代は、日本の高度経済成長の時代でもあった。それはまるで、1848年『共産党宣言』から1871年パリ・コミューンへと高揚した時代が、19世紀の欧米の経済成長の時代でもあったことと同じである。

断章219

 『独学大全』 読書猿  ダイヤモンド社・2020年刊

 自らを「拳を握って立つ女」と名乗る、アマゾン(ベスト1000)レビュアーは、「評点5つ星のうち5.0。本書があれば学習法・研究法に関する本をもう買う必要はない」と断言する。

 ―― 以下は、そのレビューのコピペ。

 「著者の読書猿氏。知的好奇心を持つ読書好きや研究者たちの間ではちょっと知られた人物です。著者のブログには、様々な分野の知(識・恵)とその学び方からアウトプット全般に関し、我々が抱く疑問や悩みに答えるノウハウや技法について紹介されています。

 ただし、本書は大学受験などをゴールとした狭義の『勉強』『独学』を目指す方にはオススメしません。他のレビュアー様がお書きのように、そこまでであれば地道な予習や復習などで間に合うからです。大学受験のみならず難関の各種試験は、比較的目的やゴールどころか動機さえ明確で、客観的評価である点数や合否もありますし。

 もちろん、読書猿氏はそうした狭義の『勉強』も包摂してはいますが、むしろ大学入学以降や社会人に向けた独学論を展開しています。そうした人々こそ学ぶ必然性や外圧がない中で、何を学ぶかはそれぞれですが、自身で学ぶ『独学』こそが身を立てる環境にあるわけです。そして己のために己で学ぶ、その目的や必然性を内発的に見出し、継続していくゆえの固有の難しさがあり、それらを扱い論じているのが本書です。

 本書を手に取る際には、『独学』の前提となるご自身の『勉強』の意味をよく問い直してニーズのズレがないようにした方がいいです。

 著者のブログや本書では、ある学問や分野を修めるならどのような形で入っていくべきか、入門書の選び方、ノートの取り方、記憶法、難解な本の読み方、図書館やDBの利用の仕方。そもそも、その前提となる、なぜ学ぶのかの動機付けや挫折の克服、継続法を最初に扱ってます。

 およそ『学習者』が遭遇することになる課題について、著者の独りよがりな極論や持論ではなく、我々の先達である『学習者』たちの知見を著者が吸収し、噛み砕いた形で紹介してくれています。

 私自身、幼少より常に劣等生としてコンプレックスを抱えて生きてきました。人よりも読むのが遅く、理解も浅い、覚えていない、答えられない。学びを喜び、いや、悦びとまで感じる人たちと己を比べるたびに、一冊の本さえ読み切れずにいる自分の弱さを呪っていましたし、いくつもの学習法や読書法、記憶法の本などを読み漁って(正確には挫折して)きました。読書猿氏のブログとの出会いはそうしてもがいている中でした。

 彼のブログは、必ずしも平易で誰にでも理解できる記事ばかりではありませんが、学ぶことを諦めたくない人が何とかその手を放さないでいるための手掛かりを、求める人に与えてくれるものです。読書猿氏の過去2冊の著作『アイデア大全』と『問題解決大全』は、膨大に学んで得た『知識のエッセンス』にあたるでしょう。

 一方で、本書は彼のように知識をエッセンスとして『吸収する方法』といえます。学習法、読書法、記憶法、自己管理など、あえて広い意味で自己啓発と呼べるものに関する本は、これまで膨大な数が出版され、これからも出版され続けるでしょう。

 しかし、その多くはタイトルや技法名は変わっていても、表向き手を変え品を変えただけで、本質はどれも同じことを言っているだけです。それは我々の悩みやコンプレックスの本質が変わっていないからであり、多くの人は耳ざわりがよく、魔法のように寝て起きたら、自分を変えてくれているようなものに憧れているからでしょう。

 本書には、魔法のような方法は紹介されていませんが、学ぶことを諦めたくないと欠片でも思っている人が貫徹すれば、確実に習得できる実用的な技法が網羅されています。

 凡百の自己啓発書のほとんどは、実際には、数百ページもある割に1冊の中で肝心の部分は数行や数ページであって、さらにその要諦(要点)は『読むだけではなく、実践してはじめて』習得できるものです。しかし、我々はそうした1冊を数日もしくは数週間費やして読み、要諦が何であったかより、『読んだという満足感』だけ得て、また次の本に飛びつきます。

 本書は我々が欲し、習得すべき本質的ともいえるいくつかの要諦を示してくれているのであって、あえていうなら、もう新たなものは買う必要のない、最後とすべき学びに関するものです」。

 

 最後に、本書の「序文」から・・・、

 「この本は確かにあまり賢くなく、すぐに飽きるしあきらめてしまう人たちのために書かれた。独学の凡人である私には、これが精一杯である。

 しかし独学の達人が書いた書物よりもきっと、繰り返し挫折し、しかしあきらめきれず、また学ぶことを再開したような、独学の凡人であるあなたの役に立つだろう」。

断章218

 日本共産党は、共産主義マルクス主義)のもたらした“惨禍”の原因を、スターリンや毛 沢東の個人的性格や生産力の低さに還元して、もう決着済の終わった話にしている。そして、相変わらず、共産主義マルクス主義)という“ドグマ”を信奉している。1991年のソ連崩壊から30年という時間による忘却が、彼らを助ける。

 

 一部の「知識人」リベラルが、また日本共産党の片棒を担いで騒いでいる。彼らは、戦後の日本の平和と安定から恩恵を受けたにもかかわらず、日本に貢献する気のないフリーライダー(ただ乗り)として、日本共産党の“同類”である。

 彼らは、1991年のモスクワのエピソード ―― 当時、モスクワにあった「万国の労働者よ、団結せよ」と記された銘板に、「共産主義に反対して」と市民が加筆 ―― の“重さ”を無視する、〈知〉に対して不誠実な“二流”インテリである。

 

 〈知〉に対して誠実であろうとすれば・・・、

 「『資本主義』という言葉を、これまでわたしはできるだけ使わないようにしていた。『資本主義』という言葉には、あらかじめ否定的なニュアンスが塗り込められているように感じていたからである。これは多かれ少なかれ、マルクス主義的・左翼的雰囲気の中で学生時代を過ごした記憶のなごりであったのかもしれない。この記憶のなかでは、資本主義的とかブルジョワ的とかという言葉は、一種の罵倒語であり、ほとんど悪人的あるいは犯罪的というのと同義語であった。

 一般的にいっても、資本主義という言葉を好んで口にするのは、マルクス主義者であり、やはり否定的なニュアンスが強い。あるいはそうでなくとも、社会主義との対比としていわれることが多い。

 しかも、現代社会は『資本主義社会』だといわれる。そうすると、『資本主義』に塗り込められた否定的なニュアンスは、そのままそっくり現代社会にまで移しかえられてしまう。日本やアメリカのような社会は、トータルに批判されるべき社会だというインプリケーション(言外の意味)がうまれてくる。

 これでは、現代社会の持つ複雑性、多様性はとても理解できない。

 資本主義社会というような言い方で、あらかじめある種の色をつけてしまったり、議論の方向を誘導してしまったりということでは、とてもではないが我々の生きている社会を理解することはできないだろう。これは、端的にずさんな言葉の使い方だともいえるし、あるいはきわめて巧妙なイデオロギーの操作だともいえるのだ」(佐伯 啓思)という視角を欠いてはならない。

 

 さらに言えば・・・、

 「いま、もし、資本主義社会は最適の社会ではないと考えるのなら、まず第1に、かつてマルクスエンゲルスが19世紀中葉の資本主義社会を論じたのと同程度に透徹した仕方で、21世紀の資本主義を、そこに含まれている問題や矛盾とともに捉え直し、その上で、第2に、資本主義とは異なる理想(ないし資本主義のよりましなあり方)を明晰に提示し、第3に、現状からそこにいたる変革の戦略を実際的に示すという3つのこと(これまでの社会主義者共産主義者も達成できなかったこと)をしなければならない」(『経済史』小野塚 知二)のである。

 

 そして、わたしは付け加えて言おう。これまで誰ひとりとして達成できなかっただけではない。これからも誰ひとりとして決して達成できないだろう。なぜなら、“共産主義”とはミラージュだから。

 「近づいたら ふいに消えてしまった 目指して来たのに どこへ行った? あの夢」(「ミラージュ」♪ 乃木坂46)。

断章217

 お客様(庶民)の困りごとを解決しよう、お客様(庶民)のニーズに応えたい、そして喜ぶ顔が見たい。これが商いの(そして政治の)一丁目一番地である。

 

 「新型コロナウイルスの感染が拡大するインドで、日本の刃物メーカー『貝印』(東京・千代田区)の爪切り『KAI Tsumekiri』が爆売れしている。同商品は、インド特有の習慣に合わせた“ある工夫”が施され、コロナ禍で衛生意識の高まりも追い風となり、現地で高い支持を得ている。老舗刃物メーカーの爪切りが、日本から約5,800キロ離れたインドで熱視線を浴びている。

 インドでは新型コロナウイルスの感染者が現在、1日当たり6万人前後のペースで確認されている。3~5月には『全土封鎖』を実施したものの、今月13日には感染者数最多の米国に次いで、累計感染者数700万人の大台を超えた。感染拡大が続く中、衛生観念に変化が起こりつつある。

 インドでは、カレーなどを手で直接取って食べる『手食文化』が残っていながらも、爪を清潔に保つ文化が根付いていない。コロナ禍で手先への衛生意識が高まり、注目が集まったのが、貝印がインドで製造・販売する「KAI Tsumekiri」(199ルピー=約280円)だ。同社が日本で販売する約450種類の爪切りにはない、インド仕様ならではの“ある工夫”が大ヒットを生んだ。

 同商品をよく見ると、先がとがった小型ナイフのようなものが付いている。同社広報担当者によると、『手でものを食べるインド人の習慣に合わせ、爪の間の汚れを取るピックが取り付けられています』。ピックに加え、日本では一般的な切った爪が飛び散るのを防止するケースが付いていることや、刃先の切れ味の良さが反響を呼び、売上高前年比は5.6倍と急伸。6月には、同社がインド事業を開始した2012年以降で、売り上げが史上最高を記録。オンライン販売も好調で、『Amozn India』の海外爪切り部門で1位を獲得するなど爆売れ中だ。インドの爪切り事情を同社担当者は、『歯でかじったりナイフで切ったりする人もいる。現地で販売されている爪切りは刃先の質が良くないものも多く、切るというより、ちぎるイメージに近いです』と明かす。

 都市と農村部で貧富の格差が激しいインドでは、生活レベルによって爪の処理に対する意識のばらつきも大きいという。同社はインドに『爪切りで衛生的に爪を切る文化を作りたい』との思いから、感染拡大後の3月から爪切りを無料配布する活動も開始。すでに約3,500個を公立学校に送付するなど、『Tsumekiri』はインドの生活必需品になりつつある」(2020/10/19 スポーツ報知・奥津 友希乃)。

 

 快挙である。たかが「爪切り」、されど「爪切り」である。

 日本各地の、日本伝統の、日本の創意工夫が詰まった様々な物品には、まだまだ世界で活躍する余地が、諸国民のニーズを満たす物品があるのではないだろうか?

 ロシアなどでは、地下足袋が「忍者ブーツ」と呼ばれて人気があり、フランスのアウトドア好きには、スズキのジムニーが人気だと聞く。

 先端工業製品だけが商品ではない。刃物や工具やメガネや果物など、まだまだ各種商品に輸出の余地があるのではないだろうか?

断章216

 「皆さんから寄せられた家計の悩みにお答えする、その名も『マネープランクリニック』の10月23日分 ―― 今日の相談者は、さばしろさん(仮名)。男性/契約社員/35歳。住まいは、持ち家一戸建てで、同居家族は、父ひとり(無職/70代前半)である」(あるじゃんAll About マネーから)。

 

 「いつも記事を参考にさせていただき、大変感謝しております。相談内容ですが、親が70代の高齢で、今は自力で動けていますが、今後は介護の問題も出てくることにどう対処していけばいいのか悩んでおります。

 現在は契約社員で、給料が少ない中での住宅ローン返済もあり、このまま同じ仕事を続けるか転職を考えるか、自身の老後への備えや、もし結婚して子どもを育てるとなった場合に生活が成り立つのか、なども不安に思っています。ぜひお力をいただければと思いますので、よろしくお願いいたします」という相談である。

 さばしろさん(仮名)の家計データは、給与手取り16万円、年間ボーナス手取り10万円(100万円ではない)。貯金60万円である。

 

 今回も、胸が詰まる相談である。「今回も」というのは、「・夫婦共に40代。退職金なしで老後や親の介護は大丈夫? ・33歳月収12万円、月200時間労働で疲れ切っています。・34歳貯金30万円。働けなくなったときに困窮しそうです」といった相談が、枚挙にいとまがないからである。

  ―― 世間の反対側には、日本学術会議への任命拒否は「学問の自由を破壊する憲法違反」「政治権力に左右されない職務の大きな妨げ」などと訴え、早期撤回を叫ぶ「左翼」学者たちがいる。幸いなことに、まだ日本には、「日本学術会議は虚飾の肩書と小遣い銭が欲しい古株教授以外には無縁かつ無用の長物」と断言する、まともな学者も存在する。

 

 日本共産党系「左翼」学者たちは、『マネープランクリニック』のような相談事には、からっきし役に立たない ―― まるで連続射殺事件の永山則夫のように、「国家権力が悪い」「資本主義が悪い」と呪詛するだけである。

 もし、「左翼」学者で、「労働者なら、ただちに日本共産党に加入して活動すべきだ」という人がいれば、(率直なだけ)よりましな部類である。但し、その党は共産主義マルクス主義)教という“カルト”であり、隠然たる学歴主義が存在し、党員の“やりがい搾取”をする“ブラック”な(表面は赤い)政党なのであるが。

 

 『マネープランクリニック』回答者でFPの深野康彦は適切な回答を重ねていると、わたしは思う。

 飢餓や殺戮があたりまえだった太古の時代や奴隷制封建制の時代ではない。自由に職業を選択できるし、身分や因習に縛られることなく自由に経済活動に参加でき、また誰もが自己利益を追求する権利があるのだから、成功をめざして努力すべき時代である。

 もちろん、この世には勤倹力行(しっかりと働いて、質素に暮らしながら力の限り努力)しても如何ともしがたい時や事がある。

 だから、わたしは何度でも言おう。国民一丸となって「富国強兵」「殖産興業」を復権し、以って無料の職業(転換)訓練や暮らしのセーフティーネットを大々的に拡充せよ!